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息とも嬌声ともつかない声を楽しみながら青年の甘い唇を味わう

「ごめんなさい…ごめ…なさ…ごめん…い」
まだ小さなその少年は口の中で何度も呟いていた。
しかしそれは言葉になることなく微かな吐息となって少年の乾いた唇から漏れるだけであった。

少年の身体は同い年のそれよりも遥かに痩せて今にも折れてしまいそうだった。
頼りない皮膚のあちらこちらにおよそ思い付く限りの傷が染み着いている。
そのほとんどが癒えることなく次の傷になっていた。
最後になにか食べたのはいつだっただろうか少年は自分の両親をみた。
彼らは呼吸をするように日常的に少年を殴り痛めつけ時々思い出したように彼らの食べ残しを少年に与えた。

身体の隅まで痺れている。
この身体が動く事はもうないだろうと思った。
視界がぼんやりと霞んで色を失っていた。

少年は自分の最後を悟っていた。
心の中にあるのはただただ両親への懺悔だけだった。

乾いた少年の瞳からは涙は流れない。

前方で音がした。
顔をあげるのも億劫だった。

少年の伸びきった髪の上に何かがそっとのった。
その下にある血の固まりとも瘡蓋ともつかない傷が痛んだ。

「君は」
誰かがいった。
頭の先からじんわりと温かくなっていく。

「これから幸せになる義務があるよ。」
柔らかい声だった。
少年のまわりの空気が浄化されているように澄んでいった。
幸福な気持ちで満たされていく。

少年は目を閉じた。

分厚い雲が空を覆っている。
月が雲の隙間から覗いては隠れを繰り返しながらその不穏な現場を照らし出していた。

男がひとり倒れていた。
今ではちょっと見当たらない古いデザインのコートを着ている。
都会の夜よりも深い黒色のだ。
男の表情は乱れた髪に隠されて見えなかった。

そのまわりを若い男が三人囲んでいる。
誰も彼もが上着の襟をかき合わせる程冷え込む深夜に彼らは息を荒げ汗までかいている。
若い彼らは男を代わる代わる蹴っていた。
その顔には人を傷付ける事に快感を見出す下卑た笑みが張り付いている。

辺りに人影はない。
ちょうどビルとビルの隙間に取り残されたこの場所に人がやってきて男を助け出す可能性はほぼ皆無だった。

男は抵抗もましてや助け乞う姿勢もとらなかった。
自分のおかれた状況に絶望した訳ではない。
寧ろその逆なのだ。

こうする事で彼らの気持ちが少しでも救われるのであれば男はどんな仕打ちでも甘んじて受ける。
それが男の役目なのだ。

男が倒れているアスファルトは触れれば凍てつく程冷たいはずだ。
男はその温度も彼らから受ける痛みも感じない。

やがてそのうちのひとりが男のコートを掴んで立ち上がらせた。
男の顔の至る所に痣と擦り傷が見て取れた。
若者と目が合う。
男は笑ってみせた。
拍子に唇が切れ血が伝う。
若者の仲間が男のコートを探り何かを掴み出すと途端に男から興味が失せたらしく乱暴に手を離す。

男はアスファルトに倒れた。
本当は今すぐにでも真っ直ぐ立って歩き出せるのだがそうすることで彼らの自尊心を傷付ける事を心配していた。

若者たちは男に唾を吐きかけ、お互いの健闘を讃え合うように笑いながらその場を去っていく。
彼らと入れ違うようにして青年が歩いてくる。
若者たちには見向きもしない。
青年は男の前で足を止めた。
男もビルの壁に背中を預け青年を見上げる。

瞳の中に暗い影が住み着いている。
肌の色が白く髪は短い。
タイトな黒いジーンズに同じ色のセーターを着ている。
全体的に研ぎ澄まされた鋭く冷たい空気を纏った青年だった。
目つきの鋭さがそれを更に引き立てている。

男は青年の格好が寒そうだと思った。

「あいつらにやられたの?」
青年の口元が動く。
表情は全く変わらなかった。
まるでアンドロイドのようだった。

「なんなら君も殴ってみるかい」
男は少し笑って髪をかきあげる。
男の髪は長く柔らかくウェーブしていた。

青年は笑わない。
男をじっとみつめると口を動かした。

「隣、いいか?」
男は足を投げ出したまま肩をすくめてみせる。
青年はさっさと横に座り込むと男にならって足を投げ出した。

男は口元を拭った。
血は既に乾いていた。
青年を見る。
青年は空を見上げていた。
男もつられて空を仰ぐ。
青年と同じ空が見えているとすればそこには星もなくつまらないものだった。

男もぼんやりと空を見つめた。
今夜はここで一晩明かすことになりそうだと思っていた。

「なぁ」
青年に声をかけられる。
みると青年はまだ空を見つめたままだった。

「あんた、」
言葉を区切りようやく男をみた。
男はその瞳の中に昔の記憶を見つけ出した。

「神様だろう?」
男は微笑んだ。
青年も目を細めて笑う。
初めて見せる表情の変化だった。
やっぱりか、青年は言った。

青年の寝息が聞こえてくる。
神様はそれをみた。
膝を抱えるように小さくなって眠っている。
微かに震えているようだ。
青年のはいた息が白く立ちのぼる。
神様は少し考えてから自分のコートを脱ぎ青年にかけてやる。
神様はコートの下に真っ白なシャツを着ていた。
闇の中にそこだけぼんやりと浮き出てみえる。
あまりに季節外れな格好である。

神様のはいた息は白くならない。
神様は眠る事もなかった。
夜が更けるのをじっと待つ。

まわりが徐々に明るくなる。
止まった空気が動き出すように暖まってくる。
どうやら今日も無事に夜があけたようだった。

隣で青年がなにか呟いた。
神様は眠る青年をみた。
青年は眉間に皺を寄せ苦しそうに呻いていた。

「ごめんなさい…ごめんなさい」
青年は魘されているようだった。
神様がそっと手を伸ばす。
見た目よりも柔らかい髪の毛が触れる。
慰めるように祈るようにその頭を撫でる。
青年の表情が穏やかになる。

青年の睫毛が震えてゆっくりと目をあけた。
睫毛が長い。
神様は思った。

青年は幾度かまばたきをした。
神様はそれを見つめる。
青年は何か言おうと口を開く。
しかし言葉になることはない。

「おはよう」
かわりに神様が言う。
青年は目を泳がせながら口の中でもにょもにょと何か呟いた。
神様は微笑んだ。

「はらへった」
青年がようやく意味のある言葉を言った。
神様は立ち上がる。
それをみて慌てて青年も立ち上がる。
拍子にコートがはらりと落ちる。
青年は眉をひそめそれを拾った。

コートと神様を見比べる。

「これ掛けてくれたの?」
神様は肩をすくめてみせる。
青年はパンパンとコートの裾をはらった。

「ありがとう。
寒かっただろう?」
コートを差し出し青年は言った。
神様はそれを受け取った。

「大丈夫ですよ。」
神様は微笑む。
青年は少し考えてから言った。

「なにか食べに行こうよ」
神様がコートを羽織った。
青年は両手を空に突き出し伸びをした。

「あいつらにお金盗られたんじゃないの?」
コートのポケットから金を取り出し支払いを済ましている神様をみて青年は言った。
神様は店員に丁寧に頭を下げてから振り返る。

「私は神ですから」
朝の慌ただしい町中をふたりで並んで歩く。
ふたり共無言ではあったがそこに気まずさはなかった。

小さな公園を見つけそこに入る。
古ぼけたベンチをみつけふたりですわる。

神様が差し出した袋の中にはひとり分の食糧しか入っていなかった。
青年は神様を見る。
昨晩と同じ全くの無表情であった。

「たべないの?」
「私は食べる必要がありません。
眠る事もない。
何も感じないのです。」
青年がまばたきをする。
口元だけを動かし、たずねた。

「腹も減らないし、寒くもない?」
「そうです」
青年は首を傾げる。
相変わらず冷たい表情だった。

「神様だから?」
「そうですね。」
神様も首を傾げ微笑む。
青年は顔を逸らしつまらなさそうに相槌をうった。

「それはとても寂しいな。」
青年はそれきり黙って大人しく朝食をがっついた。
お世辞にもお行儀のよい食べ方とは言えなかった。
神様はその様子を我が子の成長を慈しむような微笑みを浮かべ見守っていた。
その一方で青年の言葉の意味を考えていた。

寂しいとはどういう意味だろう。
寂しいなんて感情はもう随分昔に感じなくなってしまった。
寂しいも悲しいも嬉しいも腹立たしいも私には必要のない感情になってしまったのだ。

ただ神様はいつもこの世の全てを愛おしいと思っていた。
ただそれと同じくらいにこの世の全てが憎かった。

完食した青年が指を舐めていた。
神様はそれを見て少し笑う。

「神様はさ」
唐突に青年が話し出す。
神様は微笑を崩さず耳を傾ける。

「普段何をしているんだ?」
例えば有り難いお説教をしたり、病気の女の子を救ったりと青年は続ける。
神様は手を組んで柔らかく答えた。

「私の役目は迷っている者を正しい道へ導くことです。
弱き者には救いを、また罪を犯したものには罰を与えることも必要なのです。」
「あの時…」
青年の瞳の翳りが濃くなる。
青年はまだ過去に囚われているようだ。

「オレにあの日神様がした事は…」
青年はその先を続けなかった。
神様もあえてたずねなかった。
きかなくても分かっていた。

あの少年の両親はその日原因不明の胸の痛みを訴え自ら救急車を呼びそのまま亡くなった筈だ。
そこで救急隊員が目のしたのはもがき苦しんだ形跡のある男女の死体と虫の息の少年だっただろう。
少年は生き残り今も過去の影から逃れられないまま今日まで生きてきたに違いない。
青年は神様に問いたかったのだ。
自分を生かしたのは救うためなのか、罰を与えるためだったのか。

「神様」
青年が苦しげに呟いた。
見れば微かに表情が歪んでいた。

「しばらく神様と一緒にいてもいい?」
飼い主に捨てられるのを恐れている犬のような視線だった。

「構いません。
それであなたが救われるのなら。」
青年が表情を崩す。
今にも泣き出しそうな笑顔だった。

「神様だから?」
神様も微笑み返す。

「神様だからオレみたいな奴もほっとけないんだ。」
青年は健太と名乗った。
神様は名乗らなかった。

神様の生活は(それが生活と呼べるならの話だが)青年が来る前の生活とあまり変わらなかった。
決定的に変えた所と言えば夜に野宿をしなくなった事だ。
冬の寒さは人間である青年には堪えるものがある。
夜は大抵ホテルで過ごすことにしている。
青年は変わらず無表情で神様の横を歩く。
神様が様々な人に手を差し伸べるのをただ無言で見つめていた。
時々神様が歩みを速めたり急に方向転換をしたりすると青年ははぐれまいと慌てて付いて来る。
神様はそれが少し好きだった。

何日も無言で歩き回り手を差し出しホテルに泊まる日が続いた。
神様は青年を意識する事さえほとんどなくなっていた。
ただふとした拍子についてきているか確認したくなる。
神様はそれが今までにない感覚だと気付いていなかった。

ある晩、神様と青年はある病院の一室にいた。
その部屋の温度は一定に保たれていて外の寒さが嘘に思えた。

少女がひとりベッドに横たわっていた。
部屋には例のふたりと少女しか居なかった。
少女の幼い体から幾つものチューブが伸びていて横の無愛想な医療器機に繋がっていた。
その機械が少女の命を文字通り繋げている状態だった。

神様がいつもの微笑みで少女に近付いていくのを青年は落ち着かない様子で見つめていた。
神様が少女の頭にそっと手をのせる。

少女が目を開けた。
神様と青年を交互にみつめる。

「こんばんは」
少女がささやくように言う。
弱々しい声だった。

「こんばんは。
雪ちゃん。」
神様が優しく返す。
それから促すように青年を振り返る。
青年は目を泳がせなんとか挨拶をした。

「ゆきをむかえにきたのね」
少女が呟く。
その顔はやけに大人びていた。

神様はなにも言わない。
あの日の少年を思い出していた。

死を受け入れ、残される者を想表情だ。

「ひとつだけおねがいがあるの」
少女が穏やかに微笑んだ。

「ゆき、またびょうきでもいいから、こんどうまれてくるときもママとパパのところにうまれたいの」
青年が口元をおさえる。
目が真っ赤だった。
神様が優しく頷く。

「君は君の両親を幸せにしたよ。」
うん、少女が頷く。

「ゆきもね、しあわせにしてもらったの」
部屋に無機質な音が虚しく響いた。
先刻まで少女の鼓動を紡いでいた筈のものだ。

神様が少女の頭から手を離した。

「雪ちゃん」
青年がよろよろと少女に近付く。
力が抜けたようにベッドの前にひざまずく。

「雪ちゃん」
青年の声が震えている。
その頬に涙がつたう。
神様はその様子をただ見守っていた。

青年は少女の今は動かないその小さな手を両手で握った。
少女の指先から熱が逃げていきどんどん冷たくなってゆく。

青年はその冷たさに動揺し震えた。

「雪ちゃん、駄目だ…死なないで…」
少女の枕元に家族揃って写っている写真がある。
みんな笑顔だ。

「雪ちゃんが死んだら悲しむ人が沢山いる…ッ!!」
少女は微笑を浮かべたまま動かない。
青年は少女に崩れるように覆い被さって声をあげて泣いた。

どの位経ったのだろうか。
青年の声が次第に弱まりすすり泣きにかわった。
神様は青年の後ろに立ち言った。

「そろそろいきましょう。」
青年は少女の傍から離れようとしない。
神様はひとり肩をすくめてみせた。

青年が何故泣いているのかわからなかった。
少女は病気の苦しみから解放され救われたのだ。
事実少女は穏やかな顔をして逝った。

以前の神様ならすぐに立ち去っていただろう。
それをしないのは泣いている青年が気掛かりだったからだ。
この感情は少し前の神様だったら感じない筈だった。

神様は青年を抱き上げた。
青年はされるがままだった。
神様には少女の冷たさも青年の体温も伝わらなかった。

「いきましょう。」
青年は無言で頷きよろよろと立ち上がる。
それをみて神様は微笑んだ。

ふたりは病室をあとにした。

凍えるような夜だ。
神様は歩いていた。
少し後ろを青年がついてきている。
神様はその事に安堵し同じくらい苛ついていた。
青年が何時までも泣いているのが理解出来なかった。

はらり、神様のコートに何かが舞い落ちた。
みれば小さな雪の結晶だった。
神様は空を見上げた。
重たい空から雪がしんしんと落ちてくる。

後ろの足音が止まる。

神様は振り返らなかった。

きっと降ってくる雪が先程の少女と被ったのだろう。

青年は少女を救えていないと思っているのだろう。
もしかしたら私に失望したのかもしれない。
この生活も今日で終わりかと寂しくなる。

「雪ちゃんは…」
青年が嗚咽の間から言葉を絞り出す。

「生きるべきだったよ…」
青年の声が小さくなる。
次の言葉を苦しそうにようやく吐き出す。

「オレなんかより…ずっと…」あぁそうか…
神様は目を閉じた。

青年は自分を責めているのだ。
生き残った自分を責めて泣いているのだ。

「オレみたいに…いらない奴が…ッ」
「私は君に生きていて欲しかったよ。」
言葉が無意識に口をついていた。
しかし泣いている青年を慰める為に出た言葉ではなく心底から自然に出てきた言葉だった。
言った後であぁそうかと自覚する。

青年が目を見開いて息をのんだ。
後ろからは神様がどんな表情なのか分からなかった。

青年の嗚咽が止まった。
青年は今何を思っているのだろうと神様は思う。

背中に衝撃が走る。

神様が首だけで振り返ると青年が抱きついていた。
青年の予想外の行動に少々たじろぐ。
青年は神様の背中に顔をうずめ嗚咽を隠していた。

「…オレ…オレ」
青年がしゃくりあげながら言葉を紡ぐ。

「オレ…今神様の言葉に…救われたよ」
青年が涙を拭いながら言った。
まだ背中にしがみついたままだ。

「ありがとう」
神様は思った。
背中が温かい。


ゆっくりと頭を振った。
外が明るい。
背後から青年の寝息が聞こえてくる。
頭から足先までの神経が覚醒しているようだった。

青年を見ながら記憶を辿る。
あの後ホテルに入り青年が寝入るのを同じベッドに腰掛け見守っていた。

それからどうしたのだ。
何時もは何か考えているが今日はその記憶すらない。
もしかして寝ていたのか。
自分の思考に動揺する。
寝ていた?この私が?
ゆっくりと立ち上がる。
一晩座り込んでいた身体は痺れ気怠かった。
少しよろけてから恐る恐る伸びをする。
あちらこちらから骨の鳴る音が響く。
筋肉が解され心地よい。
確かめるように足を出し窓辺に寄る。
柔らかな朝日が暖かい。

暖かい?神様は苦笑する。
苦笑なんて何年ぶりだろう。

感覚が戻っているのだろうか。
神様は少しだけ考えてからコートを漁り小柄なナイフを取り出す。
刃を朝日で確かめてー反射の眩しさに驚きーそれを左手に突き刺した。

一瞬の熱さのすぐ後に傷口から脳味噌まで痛みが駆け上がった。
神様の目が見開かれた。
悲鳴をあげそうになる。

痛い。
ものすごく痛い。

神様はしげしげと傷口を眺める。
血が流れコートに染み込む。
鮮血が滴り落ち絨毯に模様を作った。
鼓動に合わせズキンズキンと傷が痛んだ。
神様はまばたきをして歩き始めた。

感覚が戻った。
これは事実だった。
神様は部屋を出て歩き回った。
世界を確かめたかったのだ。

何もかもが新鮮だった。
朝の空気は澄んでいて冷たかった。
あまりの寒さに神様はコートのボタンを全て留めた。
どこからか香ばしいパンの香りが流れてくる。
それに脳が刺激され胃が鳴った。

パンが食べたいな。

神様は思った。
何か食べたいなんて人間だった頃以来だ。
神様は自分が人間だった時を思い出した。
もう随分昔の話だ。
きっと青年の祖父が産まれる前の話だ。

遠い昔の自分の次に思い出したのは青年だった。

ホテルまで走る。
傷口から血が流れる。
息が荒くなる。
貧血か酸欠か、頭がクラクラした。
それでも走るのを止めなかった。
救うべき人間と何人もすれ違う。
足を止め自分の役目を果たすべきだ。
しかし足は止まらない。
頭の中にあるのはこれまで一緒に過ごしてきた青年の沢山の表情だった。

神様が音をたててホテルの部屋を開けた。
既に肩で息をしている。
酸素を求め激しく活動する肺が痛み、立ち眩みがする。
足の筋肉が強張り一歩を踏み出すのが億劫だった。

青年の嗚咽が聞こえた様な気がした。
神様は唾を飲み汗を拭った。
汗なんてかいているのか。
神様は声の方へ足を進めた。
声の主はベッドの上で小さくなって泣いていた。
神様が声をかけると飛び上がるように肩を揺らし顔をあげた。
神様を見て目を丸くした。

ほんの僅かな時間、ふたりは見つめ合った。
神様は汗だくでより多くの酸素を取り込むために口で呼吸をしていた。
青年は顔中を涙と鼻水で汚し、驚きの余り口を開いていた。
青年が顔を歪めた。
涙が一気に溢れる。

青年が求めるように両手を広げる。
神様は迷わず青年の元へ倒れ込んだ。
青年がそれを抱き留める。
神様の背中に青年の両腕がまわり力強く抱き締めた。
神様はそれ以上の力で青年を抱き締めた。

ふたりは無言で抱き合った。
神様は青年の鼓動を、温もりを感じていた。
腕の傷が鈍く痛んだ。

胸になにか温かいものが広がった。
覚えている。
これは
「オレを…おいていっちゃったのかと…」
神様の胸で青年が嗚咽を洩らす。
神様は思考を中断した。

「おいて、ゆくはずがない。」
神様が言うと青年が照れたように笑った。
神様は目を閉じて深く息を吸い込んだ。
青年の甘い香りに満たされる。
青年の鼓動が早まった。

しばらくして青年が顔をあげた。
その顔が微かに曇っている。

「神様…この匂いって…神様?」
神様の額から汗が伝う。
傷口から身体にかけて痺れてくる。
意識が朦朧として目の前が霞んでいた。

「神様ッ!!」
青年が神様の肩を揺さぶった。
神様がようやく青年の顔を見る。
余りの慌てように思わず苦笑した。
視界が狭まる。
思わず青年に手を伸ばした。
青年が力強くその手を握る。

神様は温かさに安心した。

名前を呼ばれた気がした。
背中に柔らかな感触を感じる。
神様は目を開ける。
青年がのぞき込んできていた。
余りの力にピントが合わず神様はたじろぐ。
青年は神様と目が合うとみるみる涙を溢れさせた。

出逢った時よりも感情が分かり易くなったな、神様はそう思いながら身体を起こした。
途端に青年が抱きついてくる。
神様はマットに叩きつけられた。
衝撃で息がつまる。
青年はお構いなしに力を込める。
細い身体からは想像出来ない力の強さだった。

「この傷誰にやられたんだよ!!急に倒れるし、血がいっぱい出て…血が、大丈夫なのか!?」
青年は興奮しているようだった。
神様は不意に青年の頭を撫でてやりたくなった。
それは神である事とは関係ないようであった。

神様は全てを理解していた。
神様は無意識に微笑んだ。
自分の愚かさに思わず笑ってしまったのだ。

青年は神様をみてぐっと黙り込んだ。
神様から離れると弱々しくうなだれる。

「また、誰かを救っていたんだ…」
神様も立ち上がる。
コートを着ていない。
見れば左腕のシャツが破られ、傷口に巻かれていた。
青年をみると悪戯が見付かった子供のようにもじもじしながら神様のコートを差し出した。
長年で染み付いた埃や血痕が綺麗に落ち、穴や綻びが丁寧に繕われていた。

「余計な事かもしれないけど…汚れてたし…。」
青年は俯き時々上目使いで神様をみた。
怒られるのをおそれる犬のようにも見える。

「ありがとう。」
神様がコートを受け取り素直に礼を言うと青年の顔が瞬時に朱色に染まった。
視線を漂わせながら笑ってしまうのを必死にこらえている。
その姿が信じられない程かわいらしかった。

神様は眩しいものでも見るように目を細め、青年の肩を抱き寄せた。
青年の背中に腕をまわすと左腕が鈍く痛んだ。
驚きに目を見開いている青年を一瞬見つめてから青年の唇にキスを落とした。
神様は目を閉じる。
青年の唇は熱かった。
目を開くと青年は目を閉じていた。

睫毛が長いな。
神様はそう思ってから苦笑した。
前にもこう思ったはずだ。

もう一度口付ける。
青年の唇の柔らかさを楽しむ。
舌で青年の唇をノックするとおずおずと口を開ける。
神様は飢えた犬のように青年を貪った。
神様の舌が口内に触れる度に青年の身体が跳ねる。
時々もれる吐息とも嬌声ともつかない声を楽しみながら青年の甘い唇を味わう。

ゆっくりと顔をはなす。
青年は睫毛を震わせて目を開く。
息があがって肩で息をしている。
目元まで赤く染まり潤んだ瞳で見つめられる。

ゆっくりと青年が息を吐く。
拍子に涙が頬を伝う。
その様子があまりにも妖艶で神様は思わず息をのんだ。

無言で見つめ合う。
青年は続きをねだるように口を開いた。

「…行こうか。」
神様は微笑んだ。
青年が息をのむ。
泣きそうな表情だった。

青年がサンドイッチを食べている。
座っているベンチは無愛想に冷たかったが全身にかかる陽は暖かい。

青年はなかなか食べるのが遅い。
口の中に目一杯詰め込んでそれをずっともぐもぐやっている。
まるでハムスターだ。

青年の食事風景をみているのは幸せなことだ。
ただ今は神様も空腹を感じて困った。
神様は笑いながら髪をかきあげる。
空腹状態なのが愉快でたまらなかった。

青年と目があう。
青年は咀嚼するのをやめずに神様とサンドイッチを交互に見つめてから食べかけのサンドイッチを差し出した。
神様はそれをみつめてから一口かじる。
口の中にマヨネーズの味が広がる。
次に卵の甘味を感じ神様は思わず口元がゆるむ。
食事をするという事はこの世で一番の道楽かもしれない。
顔をあげると青年がこちらを見ていた。
口のもぐもぐをようやくやめてそれを飲み込む。
ごくんという音が神様の耳まで届いた。

「…食べた。」
青年がぼそりと言う。
食べたも何も差し出したのは青年の方だ。
神様が首を傾げてみせると青年は嬉しそうに笑う。
なんだよと神様が言おうと意気込んで口を開くと二人に声をかける者があった。
神様は出鼻をくじかれしょうがなく振り返る。
そこには腰の曲がった老人がニヤリと薄気味悪く笑いながら立っていた。

「隣、いいかね。」
老人はついている杖でベンチを指すとその発言が決定事項であるように鷹揚な態度で青年の隣へどっかりと腰をおろした。

3人で座るにはこのベンチは少々小さいようだ。
青年が所在なさげにもぞもぞしている。
老人は両手を杖に重ね反り返る。
不気味に骨のなる音が響く。

神様は仕方なく青年が握ったままのサンドイッチにめがけ顔を近づけもう一口食べる。
青年が赤くなった。

「野暮なことをきいていいかね」
ひっひっひっと老人が引き笑いをしながら言う。
青年がびくりと飛び上がり、老人をみた。
神様は口の中のサンドイッチを飲み込むと返事をした。

「おまえさんたち、さっきからみてればイチャイチャして、あれか?ホモカップルか?」
老人のあっけらかんとした発言に青年はたじろぐ。
神様は青年の表情がみたいなと思いながら老人に笑いかけてみせる。

「見る限りだとわけぇ方がおまえさんに惚れてるようだな。」
老人が引き笑いをする。
青年は恥ずかしさからか俯いてしまった。
耳まで赤くなっている。
神様は思わずふきだした。
老人もなにが可笑しいのか例の不気味な引き笑いをする。
神様もそれにつられるように肩を震わせて笑っている。
青年は大笑いしている神様が珍しいらしくまじまじと見つめている。

神様は息をはき、ようやく笑うのをやめた。
顔をあげると老人を見る。
まだ微笑んでいる。

「これがまたどうしたことか」神様はそう言うと仰ぐように空を見上げた。

「僕の方がベタ惚れなんですよ。」
その言葉を聞くと青年が面白い程朱く頬を染める。
老人が豪快に笑う。

「そうかそうか」
老人がうんうんと頷く。

「ふたりとも幸せそうでなによりだ。」
寒いと耳が痛む事を神様は思い出した。
寒さが身に凍みる。
空気が澄んで高い空には星がぽつぽつと光って見えた。

青年は少し前をあてもなく歩いている。
老人と別れてから神様がなにか問いかけても顔を赤くするばかりでなにもこたえない。
ばかりか今はこうして顔も合わそうとしない。

思わず苦笑する。
青年が可愛くて仕方がない。
青年が今どんな表情なのかみたくなって声をかける。
それでも青年は振り向かない。

「おーい」
「……。」
「こっち向いてよ」
「……。」
「もしもーし?」
「……。」
「…健太」
青年がゆっくりと振り返った。
神様はその様子がスローモーションのようにはっきりと見えた。
瞬く睫毛も惚けたように開いた口も僅かになびく短髪もいつまでもみていたい美しい映像だった。
神様は息をのんだ。

「…い…ま」
青年が神様をみつめる。

「名前…初めて呼んでくれた…」
神様は微笑んで両手を広げた。
青年は真っ直ぐ飛び込んでくる。
青年をしっかりと受け止めると背中にまわした腕に力を込める。
青年は嬉しそうに神様の胸の中で笑っている。

「オレは今」
青年がぴったりと神様に身体を寄せ顔をあげる。
神様と目があうと照れ臭そうにえへへと笑う。

「オレは今世界中の愛を独り占めしている。」
青年は神様の背中に精一杯腕を伸ばし神様の胸に額を押しつけている。
余程恥ずかしいのだろう。

「健太」
もう一度呼びかける。

青年は顔をあげる。
顔中一杯に笑みを貼り付けているがそれを抑えようとして不思議な顔になっている。
神様はそれを見て吹き出したい気持ちになったがなんとか抑える。
しばらく見つめ合うと徐々に青年の表情も真剣なものになっていく。

青年の長い睫毛が震えている。
神様が寒いと感じている以上は青年も寒いのだろう。
青年の鼓動か或いは自分の鼓動か身体中に響いている。

青年に伝えなければならないことがある。
それをきいたら青年は悲しむのだろうか。

青年を抱く手に力を込める。
青年は大人しく抱かれている。
そんな青年が愛おしくてならない。

「健太」
神様は震える唇で青年の名を紡ぐ。
青年が真っ直ぐに神様を見つめた。

「愛しているよ。」
神様はようやく伝える。
胸の震えが全身に広がり熱を生み出す。
青年の鼓動が速くなるのを神様は感じ強く抱き締める。

あぁ、僕は彼にこの言葉を伝える為に今まで生きてきたんだ。
青年の首もとに顔をうずめて、そのにおいを胸一杯に吸い込みながらそう思った。
どんな行動でも、言葉でもこの気持ちは言い表せない。
神様の頬を涙がつたい、青年を濡らした。
神様はただただ譫言のように愛していると繰り返した。

「神様」
青年がゆっくりと神様を抱き締める。
みると青年も涙を溜めている。
神様と見つめ合うとゆっくりと微笑んだ。

「オレはきっと神様を愛する為に生きてきたんだ。」
神様ははっとして青年をみた。
青年も同じ事を考えているようだった。
それを知って嬉しくなる。
神様は微笑んで青年涙を拭ってやる。

「ホテルに行こうか。」
青年は神様の言葉の裏の意味を理解したのか顔を赤くした。
それでも照れたように俯きながら何度も頷く。

「神様、」
先に歩き出した神様に後ろから青年が声をかける。
立ち止まって振り返ると青年はその場で止まったまま不安げに神様を見つめていた。

神様は青年に向かって片手を差し出した。
青年の表情がぱっと明るくなる。
犬のように走り寄ってくると神様の手に自分の手を重ねる。
神様はそれを強く握ると一緒にコートのポケットに入れた。
冷たかった指先が徐々に温まってくる。
神様はそのことが幸せだと思った。


部屋につくと青年は所在なさげに行ったり来たりを繰り返している。
神様はその様子をずっと見ていたい気分だった。
ただ、それは叶わない。
今は時間ですら有限なのだ。

神様はコートを脱ぐとベッドに腰掛け足を組んだ。
思い出したように腕の傷が痛む。
神様は自分の左腕を一瞥してからわざとらしく咳払いをした。
神様の視界を往復していた青年は小さく飛び上がる。
神様と目が合うと顔を赤くして神様の視線から逃げる。

挙動不審な青年が可愛いと思っている自分はもう駄目なのかも知れないなと苦笑する。
出会った時はあんなに無愛想であった青年がこんなに表情豊かになったことがどうしようもなく嬉しい。
神様は敢えて難しい顔で青年に声をかけた。

「健太」
立ち止まっていた青年は身体ごと振り返る。
なにが恥ずかしいのか俯きもじもじしながら神様の表情を窺うように上目遣いでこちらをみている。

神様は今すぐにでも青年を抱き締めたい衝動に駆られたがぐっと抑え、余裕のある声で言う。
「こちらにきて座ったらどうだ。」
青年ははっと顔をあげ、神様をみた。
神様は組んでいた足を解くとベッドをポンポンと軽く叩き青年を促す。
青年は耳まで赤く染め口の中でもにょもにょとなにかを呟いていたが意を決したように顔をあげると勢いよく神様の膝の上に腰をおろした。
神様は一瞬驚いたがすぐに表情を崩す。

後ろからゆっくりと青年を抱き締める。
青年の耳元に顔を近付けると低く笑った。

「積極的だね。」
「なッ」
青年は顔を赤くして振り返ったが神様の顔が思ったより近かったらしく慌てて前を向いた。
神様は少し真剣な表情をして青年の首筋に触れるだけの口付けを落とした。
口付けは青年の肌を滑らせるように上に向かう。
神様は青年の耳を口に含んだ。
「ひゃぁッ!?」
奇声をあげ青年の身体がはねる。
神様は青年の身体を半ば力ずくで抑えつける。

耳に舌を忍ばせる。
青年の身体が震えた。
声を出すまいと口元をおさえている。

神様の舌の動きが青年の脳内に直接響く。
その官能的な水音に身体の芯がジンと痺れる。

はぁ、と青年が熱い吐息を漏らす。
それをきいて漸く耳への愛撫が止む。
まだ緊張で強張る青年を抱くと静かにベッドへ寝かせた。

青年が募るような視線を神様に投げる。
その瞳は快楽に潤んでいた。

神様は身体を折り青年の顔にぐっと顔を近付ける。
神様の長い髪がさらりとかかる。

ゆっくりと青年の唇に神様の唇を重ねる。
青年は招くように自ら口を開く。
神様が伸ばした舌に応えようと懸命に絡ませてくる。
神様の舌が青年の口蓋を掠める。
青年はその甘い刺激にびくりと反応する。
どちらともつかない唾液が青年の顎を伝った。

神様が顔を離す。
青年は息を荒げて神様を目で追った。
神様は青年に微笑みかけてから首筋にキスをする。
先程のモノとは違い青年は微かに痛みを感じた。
ただ敏感になった肌はそれすら快感として受け止めてしまう。

「んんッ」
何時の間にかセーターの裾をたくしあげられていた。
冷たい外気に触れ青年の肌が粟立つ。
神様は青年の肌を確かめるように指でなぞる。
青年はそのもどかしい感覚に耐えるしかない。

ゆるりと神様の長い指が青年の胸の飾りを掠める。
それだけで身体がびくりと跳ね、拍子に涙が頬を伝う。

「も…っもうッ」
青年が快感に眉をひそめ神様を見上げる。
青年の白い肌は今や全身が淡い朱色に染まっている。

神様はわざとらしく微笑むと手を止めてしまう。
青年が物欲しげに神様を見つめると口を開く。

「どうしてほしいかいってごらん」
青年は羞恥に顔を歪める。
その表情すら愛らしい。
目に涙を溜めて神様を睨むと自分からセーターを脱いだ。

「ちゃんと…さわれ…よ」
青年が恥ずかしげに俯く。
微かに声が震えている。
神様は青年の頭を撫でてやる。

「よくできました」
色付いた胸の尖りを口に含む。
青年の吐息を感じながら甘噛みすると身体が跳ねる。
快感がダイレクトに腰に響く。
空いた手で腹部を探ると青年は腰を引いた。
神様は頭を移動させ、股間に顔をうずめた。

「ふぁあッ…それ…っダメぇ」
神様の頭をおさえ腰を引こうとする。
しかし神様が与え続ける快感の波で思うように身体が動かない。
神様はお構いなしに口に含んだ青年自身を深くまで銜えこむ。
青年の腰が震え、直ぐにイってしまう。

「ぅあぁっ…」
神様は青年の精液を全て口で受け止めるとゆっくりと身体を起こす。
青年が涙目で息を荒げているのを確認してから見せつけるようにそれを呑み込んだ。

「はやいな」
「だって!!」
神様が言うと青年は真っ赤になって反論する。

「初めてなんだからしかたないだろッ!?」
言い終わってからしまったと言うように口元をおさえている。
神様は嬉しくなって思わずにやけてしまう。

「はじめてなのか」
目を泳がせている青年の顔をのぞき込むようにしながら神様さ悪戯をするように手を伸ばすと亀頭部分を親指でくるくるとなぞる。
青年の身体が痙攣し腰を引こうとするのを阻める。

「ぁう…イったばっかでっやだぁ」
先走りでべちゃべちゃになったそこを執拗に責められる。
びくびくと腰が痙攣するがなかなか射精まで行かない。

「もっとゆっくり感じて」
神様は微笑むと舌を伸ばし先端を舐めあげる。

青年は嬌声をあげると神様のシャツを掴んだ。
神様は不意に青年の其処に指を忍ばせた。

「ふぁあっ!?」
青年が驚きの声をあげ身体を強ばらせる。
力が入り神様の指を締め付けた。

神様は青年の息が整うのを待ってからゆっくりと指を進める。
「大丈夫か?」
神様は青年を気遣う素振りをみせたが指を止めない。
青年は口をパクパクさせながらなんとか頷いた。

クチャクチュと水音が狭い一室に響く。
何時の間にか指の数が増えている。
青年は耐えるように息をもらし、汗をかいている。

「ぁあッ!?」
神様の指が一点を掠めたとき明らかに青年の反応が変わった。
その様子をみて神様がにこりと微笑む。

「ここ?」
反応を探るように何度もなぞられる。
その度に青年は甘い声をあげ腰を揺らしている。

「もッ…やだぁ…あぅッか、…かみさまぁ」
あまりに刺激が強く、とうとう青年は神様に泣きついた。

ふ、と神様は微笑んだ。
ゆっくり指を抜く。
その刺激にさえ、青年は敏感に反応する。

青年がゆっくりと息を吐く。
神様は優しく青年の髪を撫でた。

「…かみさま、ちょうだい」
青年が強張った表情を隠すようにくしゃりと笑う。

そんな姿が、儚げで今にも壊れてしまいそうで神様は一瞬躊躇う。

神様の動揺を悟ったのか、青年は神様の指に自分の指を絡める。
じっと、目を見つめ小さな声で言う。

「オレ…神様と、ひとつになりたいよ」
その欲情に濡れた瞳の中に、確かな光を見つけて神様は顎を引いた。
青年の手を強く握り返すと唇を重ねた。

ゆっくりと腰を進める。
青年が目を見開いた。
拍子にそこがぐっと締まる。

神様は短く息を吐くと青年の名を呼んだ。

「大丈夫、息をすって…」
ゆるゆると青年の浅い所を掻き回す。
青年は苦しげに呻き身体を強張らせている。

青年の汗ばんだ首筋にキスをしる。
朱い証が刻まれると青年が小さく声をあげる。

神様は腰を止め萎えかけている青年自身を握り込む。
びくんと、青年の身体がはねる。
ゆっくりと焦らすように手を上下し、扱く。
青年の口から甘い吐息が漏れ始める。

暫くすると青年の腰がもどかしげに揺れ始めた。
前触れもなく神様は一気に最奥まで貫く。
「あぁあッ」
青年が声をあげて、神様の背中に爪を立てた。
神様は声を殺してそれに耐えると、青年の唇にむしゃぶりついた。

安っぽいホテルの一室に淫靡な水音と、互いの息遣いが響く。
青年の中は熱く、絡み付いてくるようだった。
身体中の神経が剥き出しになったように痺れ、強い快感を生み出す。
神様のそれが青年の中の一点を突くたびに青年の身体ははね、震えている。
お互いの身体が溶け出し、混ざり合った。
青年は闇雲に舌を動かし、神様の舌と絡める。
青年は神様の身体にしがみつき、真っ白な快感の中で言葉もなくイった。
その震えが身体中を駆け巡り神様自身を締め付けた。
神様は息を漏らすと青年の最奥で果てる。
熱い精液が青年の中を犯す。
ふたりの身体、意識の境界線が曖昧になり繋がっている事を実感する。
神様の腰の震えと優しいキスを感じながら、青年は満たされた気持ちで一杯になる。

今までのどんな瞬間よりも幸福な気持ちで青年は意識を手放した。

青年はすやすやと安らかな寝息をたてている。
その顔には笑みまで浮かんでいて、もう魘される事もないだろうと思う。

神様は濡れタオルで青年の身体中を丁寧に拭いてやる。
途中、何度もムラムラと欲情したが、青年を想いなんとか堪える。

布団をかけ、眠っている青年を見つめていると不意に怖くなった。

人を愛すると言うことがこんなにも辛いことだなんて知らなかった。
少し前までは、愛で溢れていたつもりなのに。

青年の事が、息も出来ないくらい好きだ。
優しさで閉じ込めて、自分だけのものにしたい。
その一方でめちゃくちゃに酷く傷付けて壊してしまいたいような気持ちにもなる。
神様は自分の矛盾した思考に、困惑する。

どうして、こんなに醜い感情が湧くのだろうか。
ただ単純に、自分は健太の事を想っているのに。

何時までも青年の傍にいたい。
神様は強く思った。
同時にそれは叶わない願いなのだと、思い知り絶望する。
自分が、青年をひとり残し逝かなければならないことに不甲斐なさを感じる。
神様は、自分に残された時がそう多くない事を理解していた。
青年と出逢った頃はその時を待ち望んでいたのに、今は…。

神様の頬を何かが伝う。
それを涙だと認識し、自分が泣いている事に気付く。
神様は思わず苦笑いする。

怖い。
ただただ怖い。
青年を残し、ひとりになり、やがて青年の記憶から消えてしまうのが怖い。
自分というものを認識に、それが成立した今、神様を支えているのは青年への想いだけだ。
自分が消えれば、その想いも消える。
例え、青年が忘れないでいてくれても記憶や想いは劣化し、薄れていく。
それが怖い。

「…神様?」
青年の声がした。
はっとして、顔をあげる。
青年が困惑した表情でのぞき込んでいる。

「泣いているの」
神様が答えないでいると、青年も泣きそうになる。

「オレと、こうなった事…後悔してるのか」
違う、そうじゃないと神様は否定した。

そんなはずがない。
そう言いたいのに、出て来るのは嗚咽ばかりで言葉がでてこない。
青年がゆっくりと手をのばす。
指が神様の睫毛に触れ、目尻に向かい、涙を拭う。

「寂しいの?」
神様は青年に抱き付く。
声をあげて泣いた。
泣く行為自体が初めての体験で、上手く息が出来ない。
青年が優しく背中をさする。
温もりが神様の身体に染み渡る。

そうか、これが
 寂しいということなのか。

「神様、大丈夫だよ」
青年が何度も何度も言う。
徐々に、神様の呼吸も落ち着いてくる。

段々頭が冴えてくる。
神様はふと、不安になった。

青年は、最早神様でもなんでもない自分の事を、愛してくれるのだろうか。

顔をあげる。
目が合うと青年は微笑む。
青年に説明をしなければならない。

何故、僕が神様になったのか。
そして、何故もう神様ではなくなったのか。

それを理解してもらうにはとても長い物語を聞いて貰うことになる。
青年に全てを話して、受け入れてもらうしかない。

随分昔の記憶、神様でいた時は思い出し得なかった事を、今ははっきりと思い出す事が出来る。

この話を聞いて、青年は自分の事を嫌いになるだろうかと怖くなる。

青年の顔を見つめる。
出逢った当時からは想像もつかない穏やかな微笑を浮かべている。

もう始まっているのだ。
そして自分の死で引継が完了するのだろう。

決心し、青年の手を握る。
青年は自然に握り返してくる。

「話さなくてはいけないことがある。
長くなるが、きいてくれるか。」
青年が頷くのを確認し、目を閉じると震える声で長い物語を紡ぎ始めた。


それはまだ僕が、人間だった頃の話だ。
君のお爺さんが産まれるずっと前の出来事だ。
当時、僕は人生に絶望して投げやりな生き方をしていた。
どうにでもなれ、という気持ちで行く宛もなく惰性に旅をしていた。

ある日、僕はある男に出逢った。
何時も穏やかに微笑んでいて、周りの空気が優しくて温かかった。
一緒に居るだけで幸福な気分になれた。
元々目的のある旅ではなかったし、なにより彼の隣が心地良かったから僕は彼について行くようになった。

彼は不思議な人で、自分は神だと言った。
僕もあぁ、そうだろうなと言う程度にすんなりと受け入れられた。
実際、彼は救いの必要な人に手を差し伸べ、皆を救ってきた。
僕は何度も目前で体験していたから、なにも疑わなかった。

暫くふたりであちこちを旅してまわった。
僕は荒れていた心が嘘のように穏やかになっていた。
ただ心中あるのは彼への愛だけだった。


ここまで話すのに長い時間がかかった。
続きを話すのが辛くて、深く息を吐く。
目を開けると青年が続きを促すような視線を投げ掛けてくる。
男は軽く頷くと、言葉をさがすようにまばたきをしてから続ける。

「僕は、彼を求めた。
ちょうど昨日の僕等みたいに激しく求め合った。
なにもかもが満ち足りて、幸福な気持ちだった。
あぁ、幸せだ、僕はこれから彼とふたりで何時までも一緒に居るんだと、そう思った。」
青年を見る。
青年はこの物語の結末を悟ったのか顔色が悪くなっている。
視線を彷徨わせ、弱々しい声でたずねてくる。

「その人は…どうなったの?」僕は目を閉じた。
全てを知った時、青年は僕を責めるだろうか。
それとも、あの時の僕のように自分自身を責めるのだろうか。

「死んだよ」
「どうしてッ!!」
青年が声をあげた。
彼はもう理解したのだろう。
何時の間にか止まった筈の涙がまた流れ始めた。
それが伝染するように青年の目にも涙が溢れる。

「神は、人類総てを平等に愛すべきなんだ。
たったひとりを愛することは赦されない。
彼は死んだ。
僕が代わりに神様になった。
それは僕への罰なのかも知れない。」
「嫌だッ!!そんなのききたくないッ!!」
青年が僕の手をふりほどくと、駄々っ子のように耳を塞ぎ、首を振った。
僕は自分が驚く程穏やかな気持ちでいるのに気付いた。

「…好きだよ」
僕は鼻を啜り微笑んだ。
僕の言葉に青年がびくりとする。

「違う…」
青年が弱々しく呟く。
肩を震わせ、泣いている。
此処からは彼の表情はうかがえない。

「健太だけを、愛しているよ」青年がゆっくりと顔をあげる。
涙で顔はぐちゃぐちゃだった。
それでも、僕は思う。
健太はこの瞬間、誰よりも、何よりも美しい。

青年はなにかを言おうと口を開いた。
けれど言葉にならず、顔を歪める。
僕はまるで神様みたいに微笑んで、両手を広げる。
青年が迷わずこの胸に飛び込んでくる。
僕は健太を受け止め深く抱き締めた。
健太も助けを求めるようにすがりついてくる。
しゃくりあげる青年の耳元で僕は懺悔の言葉を吐く。

「巻き込んで、すまない。
こんなに、泣かせて辛い思いをさせるつもりはなかった。」
僕の胸で青年は首をふる。

「違う…オレが居なかったら神様は…ッずっと、神様だったのに、オレが…ッオレがッ!!」やはり、青年は自分を責めるのか。
僕は悲しくなった。

「それは違う」
僕は青年の顔を覗き込む。
青年は涙を流しながらそれでもちゃんとこちらをみる。

「健太は?僕の事、好き?」
そうたずねると、青年はくしゃくしゃに顔を歪ませて、新しい涙の痕をつくった。

「好きだよ…神様のことっ大好きだぁ」
僕は嬉しくなって微笑む。
青年は嗚咽まじりに続ける。

「オレ、…ッ神様に救われたのにッ…ふぇっ…神様が…ひっく…オレのせいで死んじゃうなんて…」
ただ、健太の事が愛おしい。
健太の為なら他はどうなっても構わないとさえ思う。

「違うよ、健太…救われたのは僕の方だ」
それに今神様なのは健太の方だと、笑いながら指摘すると青年は更に涙を溢れさせた。
僕はそれをみてまた微笑んで、幸福なのに涙を零した。
青年の涙を拭ってやると、青年は目を閉じた。

僕は身体を倒して青年の唇にキスを落とした。
世界中で一番愛に溢れたキスをした。

男がひとりベッドに横たわっていた。
自分の死期が目前まで迫っている事を悟っていた。

身体中を心地良い浮遊感が支配していた。
死ぬのも悪くない、男はそう思った。

ベッドの横には神様が跪いている。
神様は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、男の手を握っていた。

男は思う。

きっと君は、僕が死んで暫くすれば、僕の事も君自身の事も忘れて奉仕活動に専念するんだろう。
そうして何百年も経って誰かを愛する時が来るのだろう。
その時はその誰かを愛しながら、少しだけ僕の事を思い出して僕の事を救えたんだって実感する筈だ。
そうしたら君は君を愛してくれた誰かに微笑みかけて、その誰かは自分を責める。
今の君みたいに。

だけど心配は要らない。
辛いのは今だけで、直に君は世界中を愛する気持ちに満たされる。
その時は僕はただのものになって、なんの意味もなくなってしまう。
少し怖いけれどそれよりも幸福だ。

男は神様をみて微笑んだ。
その瞳から一滴の涙が流れ落ちる。

愛してくれてありがとう
泣いてくれてありがとう
終わらせてくれてありがとう
生きててくれてありがとう
僕は神様だったけれど、天国があるのかどうかしらない。
もしあるとするならば、何百年か後にそこで会おう。

さぁ、健太。
君の最初の仕事だ。
僕を救って君は完全な神様になる。

もしかしたらこの幸福な気持ちは、健太に手を握られているからかも知れないな。
男はそう思った。

空気が抜けていくみたいに身体が軽い。
男は最後の力を振り絞って目を開けた。

神様の目を見つめる。
言葉をかける余裕はもうない。

伝わるといいな、と目で合図を送る。

愛しているよ、健太
男は目を閉じた。


古びたホテルの一室で青年が跪き、声をあげて泣いていた。
青年は男の手を握っていたが、既にその男は息をしていなかった。

青年は声の限り泣き叫んでいたが、やがて放心したように男の顔をみつめた。

穏やかな死に顔だった。

暫くすると青年は立ち上がった。
迷うことなくかけてあったコートを羽織る。
今ではちょっとみかけない古いものだった。

青年は部屋を後にする。
その顔には穏やかな微笑が浮かんでいた。

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